日本の製茶王大谷嘉兵衛(1844~1933)

大谷嘉兵衛翁は、弘化元年(1844)、伊勢国川俣谷の谷野村(松阪市飯高町宮本)に生まれる。19歳の時、故郷を離れ、横浜で製茶業を営む隣の森村出身の小倉藤兵衛に奉公する。24歳でスミス・ベーカー商会の製茶買入れ人となり、商才を発揮する。

明治元年(1868)、横浜海岸通りに製茶売込み業を開く。その後、全国茶業組合設立に参画。日本製茶株式会社の創設。日本紅茶株式会社設立。茶業組合央会議所会頭、横浜商業会議所会頭、日本貿易協会会長に就任する等、生涯を通じて、日本茶業の振興に力を尽くす。

また、米国のマッキンレー大統領と会見し、茶の関税撤廃に成功し、日本と米国を結ぶ太平洋海底電線敷設にも力を尽くす。更に明治40年(1907)、貴族院議員に推挙される。

こうした数々の功績が認められ、明治40年、勲三等瑞宝章、大正4年(1915)、正五位、同12年(1923)、紺綬褒章を授けられ、昭和8年(1933)2月、89歳で多彩な生涯を閉じる。後に、「製茶王」「茶聖」と呼ばれるようになった。

川俣谷に生まれた翁は、ふるさとをこよなく愛し、ふるさとの教育や産業の発展に力を尽くし、村民の悲願であった大谷橋架橋への財政負担や川俣小学校校舎建設、大口港(松阪港)築港等にも大きく貢献した。

翁はふるさとの熊が池を南湖と呼び、自分の別称として愛していた。
製茶王 大谷嘉兵衛翁は、郷土は勿論のこと、日本の誇りとして、後世に名を残すものである。

渋沢栄一と大谷嘉兵衛

渋沢らとの渡米のきっかけは、日露戦争(1904~05年)後に生じた日米間の摩擦。
同館の機関誌「青淵(せいえん11渋沢の雅号)」によると、この頃日米の経済関係は深まるが、ロシアに代わって東アジアで台頭する日本への米国の感情は悪化し、日本の実業家たちは対立激化を憂慮した。
 1908(同41)年、第一銀行頭取だった渋沢と日本製茶㈱社長で横浜商業会議所会頭の嘉兵衛、大物実業家の中野武営 (東京株式取引所理事長や関西鉄道社長などを務め、のちに東京商業会議所会頭)、松方幸次郎(川崎造船所社長、父は明治の元勲で総理大臣を務めた松方正義)らが民間の立場から日米関係を改善する方法を模索する。
 こうした中、米国の実業家が同年10月、横浜港に立ち寄るとの情報が入った。渋沢や嘉兵衛らは一行を歓迎して日本の親米感情を伝えることを考える。
 歓迎はあくまで民間主導だったものの、結果的に外務大臣など政府の要人も多数出席するこどとなり大成功裏に終わつた。
1909(明治42)年の渡米団の記念写真 (渋沢栄一記念財団渋沢史料館所蔵)
(上写真)の真ん中にエジソン(右)、渋沢(右から2人目)、大谷嘉兵衛(左端)が写る

 

ふるさとのために

村人の悲願であった大谷橋架橋

 翁の生まれた川俣村は、中央を東西に櫛田川が流れ、両岸を結ぶ橋の殆どは低い丸木橋だった。大雨のたびに増水した流れに橋が落ち、陸の孤島になることはしばしばであった。橋が流出すると人々の生活は難渋を極め、人々は長い間、堅牢な橋梁を架設したいと願いながらも、技術上、財政上叶わぬ夢であった。
 このことを聞いた翁は、一日も早く架橋すべきと経費の大部分を出して工事に着手。
 明治29年9月に落成。村会の決議により、「大谷橋」と命名された。

初代明治29年

2代目明治42年

3代目

現在 

ふるさとの  教育振興に尽力

 

翁が多額の建築資金を提供して建てられた  川俣小学校

翁の生家(明和町斎に移築)